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 遺留分の歴史は、古代ローマの時代まで遡ります。ローマ法では遺言による相続が原則化し、家長は絶対的に自由な財産処分権を持っていました。遺言書で相続人を指定し、その者に全ての遺産を相続させることが可能でした。他の家族は遺産を取得する権利を持たず、それがために被相続人の近親家族が困窮する事態が生じました。そこで家族救済のために遺産の一部を家族内に留める義務を課すことになりました。これが今の遺留分の元になる考え方です。

 ゲルマン法では、逆に家の財産は、家族の共有であって、家長といえども自由に処分できませんでした。その後、家の財産の一部について家長の自由財産処分権を認めることになります。つまり自由財産処分権によって処分された財産の残りが遺留分の財産となります。

 日本で明治31年に制定された民法典は家督相続を相続制度の根幹としました。そして家督相続人の相続権が侵害された場合に、家督相続人が家の財産を取り戻す制度として遺留分を位置付けました。家の財産という思想を採用するゲルマン法を承継したのが日本の遺留分制度でした。

 戦後民法も遺留分制度を承継しましたが、存在意義の新たな位置づけが必要になりました。一つとして、家族が共同して生活するときには、一家に蓄積された財産には家族の貢献、つまりは潜在的な持分がある事。二つ目には家族の仲では相互に扶養義務を負い、家の財産の一定割合を、その財産に基づき生活していたものにも留保することが要請されること。この2つの理由で説明されています。

 戦後経済の中心は農家、酒屋、八百屋、魚屋などの家業が主流でした。家業には家族の協力が必要で、それによって蓄積されたのが家の財産でした。相続に際しましては、家族の貢献を反映し、さらに、それら財産に頼っていた家族の生活も保護する必要があります。つまり、例えば未成熟な子の生活保護や家族相互の扶養義務です。それが取り分の最低保証である遺留分制度として位置付けられたことになります。

 しかし家族で家業を支えるという文化は昭和年代に急激に消滅していきます。家族が揃って農作業をする景色は失われ、家業として生き残っていた八百屋、魚屋も消滅していきました。国民の80%がサラリーマンか公務員という時代です。このような時代では、家業として財産の蓄積に協力したという遺留分の一つ目の理由は位置づけが難しくなります。

 そして今問題とされているのが長寿化の時代であるということ。日本人の平均寿命は、この30年で1世代分近く延びてしまいました。このような時代では、遺留分制度に未成熟の子の生活保護義務という二つ目の理由を位置付けることは出来ません。

 現在の相続分、あるいは遺留分は、55歳で定年退職になり、自分の老後を現実的に意識した人たちと、60歳の定年退職で年金生活を始めた人たちの老後の生活の保障としての役割になりつつあります。相続分、あるいは遺留分を確保できるか否かが老後の生活の質を決めることになります。そういう意味で、相続分や遺留分は、より重要な存在になりつつあるでしょう。

文責 仙台市で相続税に特化した税理士事務所|栁沼隆 税理士事務所

所長 栁沼  隆

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