先日、研修旅行を兼ねて山口の萩市に旅行する機会を得ました。大村益次郎や吉田松陰の記念館を訪れ、改めて先人たちの偉業に感銘させられました。そこで疑問に思ったのですが、関ヶ原の戦いで負けて巨大な借金を抱えた長州藩が、幕府を倒すほどの財源をどうやって捻出できたのでしょうか。幕末には何と借金が年間予算の24倍にまで膨らんでしまっていたそうです。しかし毛利家と家臣たちは驚くべき改革で藩存亡の危機を乗り越えます。
まず御前仕組方という藩主直属の改革プロジェクトチームを作ります。そして新たな税収を得るために徹底的な検地を実施します。増税を意味する検地を行うには農村を牛耳っている豪農たちの理解を得なければなりません。ここで御前仕組方は、防長2カ国に押し込められたときに召し放ちになって農民になっていた武士に目を付けます。彼らを武士化して行く役につけたのです。つまり豪農たちに武士の身分を与えて検地に協力させたのです。
こうして長州藩の石高は、32万石から82万石までになりました。更に藩主・重就はその財源の内、5万石を元手に特別会計の組織、撫育方を設置、積極的に新たな産業を起こしてゆきます。
・塩田開発
・ろう、紙
・港を開き、越荷方という藩直営の倉庫業、金融業を開設
総合商社として商人たちを育成します。幕末、伊藤博文・高杉晋作・桂小五郎などはこの越荷方の役人をつとめた事で鋭い経済感覚を養っていったのです。
撫育方と越荷方が莫大な私益を残し続けます。幕末、長州藩の隠し財産はなんと100万両まで膨らんでいました。毛利重就の改革で生まれた産業や人材が幕末の長州藩を維新に突き動かす原動力になって行くのです。