井伊直虎が井伊家の宗主になった当時、領地である井伊谷では二つの争いがありました。一つ目は、井伊家内部の争いです。家老の小野政次は、父親の小野政直のときから今川家と通じていました。
特に井伊直虎が井伊家宗主になったことが気に入らず、井伊家を追い落とし、井伊谷の領主になることを狙っていました。二つ目の争いは、井伊家の銭主になるほど財力をつけてきた豪商・瀬戸方久らと他の商人との争いです。
ちなみに「銭主」とは、大名や武将に金を貸していた商人のことをいいます。当時は権力を持っている人間がお金持ちとは限りませんでした。また、徳政令とは「借金」を帳消しにするという政策のことです。
この時期、井伊谷の農村では、相次ぐ戦のたびに男たちが巻き込まれていきました。兵士として徴兵され、戦死する農民も多かったのです。
その結果、田畑は荒れ、生活は困窮していました。そこで農民は高利貸しの商人から自分たちの田畑を担保に借金を重ねていったのです。返すあてのない借金を重ねた多重債務者となるしかなかったのです。
困った農民たちは団結して徳政令を出してほしいと、駿河の今川氏真に訴えました。ただ、井伊谷での徳政令は、小野政次らが井伊家をつぶすために、農民たちを扇動したともいわれています。
徳政令を出せば、井伊家にも影響が及びます。井伊家も銭主に借金をしていたといわれています。井伊家の借金は帳消しになりますが、銭主である瀬戸方久を初めとする新興勢力の豪商たちの経済力は落ちてしまいます。
商人の経済力が落ちれば、領地そのものの経済力も落ちます。一方で、徳政令を出さなければ農民たちが一揆を起こすかもしれません。そして、井伊家に政治的な不祥事を起こさせ、失脚させ、井伊谷を支配したい小野政次もいます。
そんな中、今川氏真からついに「井伊谷徳政令」を出すよう命令が届けられます。井伊直虎にとって、最大の試練が訪れたといえるでしょう。