井伊直虎は、戦いよりも内政・外交に力を注いだ武将です。今川氏真から徳政令を発するように命じられたとき、直虎は命令に従いませんでした。徳政令の発令を見送り、商人を保護し、井伊家の経済的安定を優先する決断をしました。
ただ、今川家に対しては徳政令を出さないとはいえません。商人や領民たちへ説明、説得のための時間が必要だと粘り強く説明し、発令を遅らせました。その間に、農民たちの動向に気を配りつつ、商人らに対し、徳政令の免除を行う措置を進めました。
さらに直虎は、幼いころに世話になった龍潭寺も守ったとされています。徳政令が出されれば貸した金は戻らないどころか、担保の土地も手放さなければならなかったといわれています。
直虎は担保の土地を徳政令から除外する書状を龍潭寺に発行し、寺を危機から救ったといわれています。このように、徳政令を出すように命じられてから2年の間、直虎は領内の混乱を出来るだけ少なくなるように着々と準備を進めていくのです。
業を煮やした今川氏真は、家老関口氏経を井伊谷に差し向けます。そして、ただちに徳政令を実施するという文書に署名をさせます。この文書は浜松市にある蜂前神社に残されています。
文書には次郎直虎と署名され花押が書かれています。花押は今でいう実印に当たるもので、当時は男性の城主しか使用できなかったといわれています。女城主直虎の花押が書かれた文書は、全国でも珍しく貴重な文書です。
ついに徳政令は発令されますが、長い時間を費やして準備をしてきた甲斐があり、小野政次らが思っていたような大きな混乱は起こりませんでした。ただ、この後、今川家は井伊谷を直轄地とし、直虎は城を追われてしまいます。
殺されかけた直虎は、出家することを条件に許されますが、その後、直虎は、義元の死後、力を落としていった今川家に見切りをつけ、徳川家康の力を借りる決断をすることにします。徳川家康と井伊谷三人衆の力を借り、所領を奪還し、徳川家康に臣従することになります。ここから、井伊直虎と徳川家康の関係は深まっていくのです。