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 日本では、人生の節目には必ずお酒が伴います。赤ちゃんが生まれたお祝い、成人式、婚姻、新築、葬儀、そしてお盆と、神仏に捧げ、身を清め、自分や家族の安寧と繁栄を祈願する為にも欠かせない存在です。まさに日本人の培ってきた文化そのものと言えるでしょう。そして長きにわたり育まれてきた酒の歴史は、同時に国家権力による課税との戦いの歴史でもあります。今年のお盆も多くのご家庭でご先祖様に御神酒が供えられると思います。故人を偲びつつ、お酒の歴史について思いを馳せてみましょう。

 お酒は飲食料品であるものの、その所轄官庁は農林水産省ではなく国税庁です。それはお酒が昔から税金と深い関係にあったためです。

 日本でお酒が飲まれていたことを示す最古の記録は西暦1世紀ころの中国の書「論衝」とされ、そこには日本人が酒に浸した薬草を服用していたと書かれています。そして古事記には渡来人によって造られた醸造された酒が天皇に献上されたとあり、いまでいうところの税のように酒を納める制度はかなり以前からあったようです。

 中世に至ると、鎌倉幕府は醸造に使う壺の数を課税基準とした「壺銭」を創設します。ただし多くの酒を醸造していた大寺院、特に強大な力を持っていた延暦寺などはこの税に相当反発したそうです。しかし足利義満の頃に万全の権力を手にした幕府は神社を黙らせ、「酒屋役」という醸造元そのものに課税する方式も導入し、大きな財政基盤としたと言われています。この時の税額は、酒壺1以上の酒屋を対象に1壷100文が課されました。

 時は下り、江戸幕府はお酒の製造を管理するため、「酒株」という登録制度を作りました。いうまでもなく、きちんと税金を取るためのリストです。今でいうところの法人番号でしょう。それをもとに「運上」という営業税を課したのです。

 ただ幕府は、酒屋はよほど贅沢に儲かっていると見たのでしょうか、その税額は酒の価格の5割と定めます。造り酒屋には大きな負担となり、そのため酒の生産を控えてしまい、幕府は思うような税収をあげることができず、18世紀初めの宝永年間に運上は廃止されます。

 酒運上が廃止されたものの、幕府はお酒から税金を取るうまみを忘れられず、後に

 「冥加金」として復活することになります。これは大政奉還後に明治新政府にも受け継がれ、造酒100石ごとに金20両を納めさせました。

 明治4年には、江戸時代から続く酒株による統制を改めて「免許料」「免許税」「醸造税」などを創設して税金を徴収します。その後、数度の返還を経て明治29年に「酒造税法」が成立、3年後には地租税を抜いて国税収入の1位となります。それから昭和10年に所得税に抜かれるまでトップに居座り続けます。

 酒税ばかり増税路線を走った背景には、当時の政治家の多くが、自己の所有する土地に課税される「地租税」の増税には敏感だったのに対して、お酒に関しては関心が薄かったためともいわれています。

 その後、昭和15年には、ビールや工業用アルコールなども包括した「酒税法」が施行され、終戦間際の昭和19年には課税基準が造石高から庫出高に変更され、昭和28年に現行の「酒税法」が制定されるにいたります。

 こうしてお酒の歴史を振り返ってみますと、国家権力がいかにお酒を大きな収入源と見てきたかがわかると思います。困ったときに振れば何でも出てくる打出の小槌のような扱いです。原材料のほとんどが穀物と水であるにもかかわらず、主管官庁が農林水産省ではなく国税庁であるのも頷けます。

 そして、国家がお酒を打出の小槌と見ている限り、お酒を巡る税金の問題は続いていくことでしょう。現に、消費税導入後は税に税を乗せる「二重課税」も指摘されているところです。10月の10%への増税時には改めて納税者の目が向けられることでしょう。

文責 仙台市で相続税に特化した税理士事務所|栁沼隆 税理士事務所

所長 栁沼  隆

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